離人症に効果的だったこと

 これはあくまで、私の体験のみの出来事での話ですが、離人感が酷くてしょうがない時に、効果的であったものを紹介いたします。

・規則正しくご飯を食べない

 社会の習慣に合わせて、規則正しく決まった時間に、決まった量のご飯を食べ続けていると、離人感が酷くなります。
 ご飯が何なのかがさっぱり分からなくなり、体の栄養をとるためだけの「燃料」として、脳が認識しはじめると、非常にまずいのです。
 そのためにも、あえて、特にお腹のすかない時には、ご飯を食べないか、後で食べるか、もしくは、極端に量を減らしてみましょう。
 なんとかして、一日一回は、きちんとお腹がすいて「ご飯が食べたい」という実感を、わざと作っておくと良いのです。
 かといって、朝ごはんをまったく食べないと、午前中頭がボーッとして、これまた離人感がひどくなるので、朝ごはんは、必要最低限の量を少しだけ食べると良いでしょう。

・規則正しく人とつきあわない

 離人症にはまると、自動的に人とつきあっている状態になり、人付き合いが機械仕掛けのただの流れ作業のようになり、これまたよくない状態になってしまいます。
 特に別に、誰ともつきあいたくない、と思った時は、いっその事、一人でどこかへ出かけてしまってはどうでしょう?
 本当は、誰とも会いたくないのに、自動的に、社会の習慣に合わせて人付き合いを続けすぎると、ますます離人感が酷くなって、人を人として実感できなくなってしまいます。
 2連休、3連休とあったなら、もう、思いっきり一人になってみるのもいいかもしれません。もちろんこれは、時間に余裕がある人の場合の話ですが、しかし、そんなにヒマの無い人も、日常生活を送る中、意識上、社会の習慣に合わせて人とつきあう事をやめる「スイッチ」のようなものを身につけて、オン、オフを切り替えて、日常生活にメリハリをつけていった方が良いでしょう。
 あまりにも、規則正しく、全ての人に対して平等に、きちんと付き合い続けていくと、人の存在が、何が何だか良くわからなくなってしまうはずです。
 おそらく離人症にはまるひとは、あまりにも、人付き合いが律儀すぎると思うのです。つまり、堅い。
 もっといい加減に、程度良く、そこそこ、人とつきあいましょう。
 そうすれば、きっと、「あの人に会いたいなぁ」「あの人に会いたくないなぁ」、といった、自分の単純な心がやっと姿を現してくれるはずです。

・お経を唱える
 離人感がひどくなると、必ず「なんで、離人感がおきるのだろう?」と、いろんな意味を考えすぎてしまいます。
 意味を考えすぎることによって、ますます、離人感がひどくなり、そして、さらにその意味を考えると、ますます離人感がひどくなり続ける、という悪循環にはまってしまうのです。
 そんな時に、とても効果的だったのは、心の中で、短いお経を繰り返し唱えることでした。
 これは、念仏でもかまいませんし、ご真言でも、南無妙法蓮華経でもかまいません。なるべく、短くて覚えやすいものが良いでしょう。
 お経を一生懸命唱え続けますと、物事の意味を考え過ぎなくてよくなり、この悪循環から脱出することができます。

・ヨガをする
 ヨガは、大変優れた修行法でもあり、健康法でもあり、もちろん、離人症に対しても効果があります。
 人間、ネガティブな事ばかりを考えすぎていると、必ず、血液の中の気の流れが、陰のオーラに染まってしまいますので、そんな時にヨガが効果的です。
 特に、不健康な生活が続いて、運動不足な時にすると、その効果が良くわかりました。
 一口にヨガといっても、体の柔軟運動、呼吸法、そして、瞑想と、三つの分野があり、それぞれ、非常に優れたものです。
 まずは、はじめは、柔軟運動から入門するとよいでしょう。体を柔らかくさせて骨格のゆがみを治すだけで、血液の中のマイナスの循環が、かなり、プラスに変換されるはずです。

・俳句を詠む
 俳句なんて、ただの年寄りの暇つぶしの趣味だと思っている人も多いようですが、実は俳句は、日本人が伝統的に築き上げてきた、人生の楽しみ方の至高のエッセンスが詰まっているトンデモナイ代物なのでした。
 私はある、84歳の老人から、俳句の素晴らしさをたまたま教わることができましたが、とにかく、俳句を詠む心を見につけますと、1年365日の違いに敏感に気づくことができるようになり、ただのありふれた日常生活が、とたんに、とても楽しい毎日へと変貌するのでした。
 子供の頃持っていた、何にでも興味を抱いて触れてみる心が、俳句によって生き返るのです。これはぜひともオススメします。

・ひたすら、膨大な距離を徒歩で歩く
 ただ、ひたすら、歩く。
 

・遊ぶことよりも、休むことを優先させる


「私は、とにかく、遊ぶことがヘタクソな人間なのだから、もっと、人生を楽しまなければいけない・・・。」

 と、過剰に、異常に思い込みすぎていて、自分は、趣味や友達や恋人を、今よりももっと増やさなければいけないという強迫観念にかられすぎていたのですが、これが、どうも、大きな思い違いである事に気がついたのです。

「どうしても、遊ぶことが、疲れて疲れてしょうがない・・・!!」

 と。

 そうだ・・・

 趣味も、友達も、恋人探しも、どれもこれも、疲れて疲れてしょうがない!! と。

 そこでようやく、今まで思い込みすぎていた自分の勘違いを見抜くことができました。

 やはり、周りからも、ずっと、趣味や友達や恋人を増やすように進められすぎていたのですが、どうしてもこれが、異常に疲れて疲れてしょうがないため、その方向性が間違っていることにやっと気がついたのです。

 精神病になりやすい人の性格として

・異常にマジメな性格
・異常に几帳面な性格
・異常に律儀な性格

 などがあげられていますが、だからといって、いまさら、性格を変えることは、すごく、すごく、難しい。

 なのであれば、遊ぶことが苦手な人は、別に無理をしてまで、そんなに遊ばなくて良い。笑わなくて良い。友達を増やさなくて良い。異性とつきあわなくて良い。

 それよりも、もっと、休むことが必要だったのです。

 「遊ぶこと」は、疲れている人間には、多少無理なハードルがあるのだとしても、「休むこと」は、全人類、全ての人間に、等しく実行することが可能とされている行為なのです。

 何にも素質や才能などなくったって、誰にでもできる行為こそが、休むことなのでした。

 これが、不思議な気づきといいますか・・・、とにかく、自分は、自分のできない事の理由をみつける名人でありましたから、

「○○がダメだから、自分は、趣味を楽しめない。
 ××がダメだから、自分は、友達を作れない。
 △△がダメだから、自分は、異性とつきあえない。」

 と、鬼のように、全ての遊びに疲れる要因を見つけ出し、自らを疲れさせる達人芸を身に着けてしまっていたのですが、

 しかし、休むことだったら、どんなに、能力の無い人間にでも、等しく実行が可能なのです。


「自分は、休むことすらできない人間だ。」

 ・・・本当に、そうでしょうか・・・?


 本当に、休むヒマの無い人(今すぐ、餓死する人)は、きっと、精神的に病むことを自覚すらできない状態にあるはずなのですから、自分は病んでいると、自覚できるほどの時間に余裕のある人には、きっと、休むだけのヒマがあるのです。
 餓死しなければ、きっと、人間は、休めます。

「そうか、少しも遊ばなくて良かったんだ・・・。そうだ、そうだ、遊ぶことよりも、もっと、休むことを優先させよう。」

 このようにして、休みの日に、少しも友達とつきあわず、一人で、ただ、ひたすら、町をぶらぶらと歩いて、ぼけーっとしている事を覚えたのでした。

・わざと適当に怒る

いろんな自分の感情を、なるべく、「いい加減」に表現することが、離人感の回復につながるようです。

とくに、「怒り」を、いい加減に表現すると効果的でした。

もちろん、人前で怒ると、トラブルになるので、
私の場合は、「王様の耳はロバ式」の怒りの発散方法を実践してみました。


「バカヤローーーー!!!」


と、いい加減に、誰もいない所で、おもいっきり発散させてみたら、なんだか、胸がスカッとしたものです。

以前は、「怒り」は、全て、的確に、忠実に表現しなければいけないと思い込みすぎていたので、実際に腹の立っている人物の目の前で、いかに、うまく、見事に、怒れるかを、やってやろうと考え、しかし、やはり、怒れず、また、「怒ることは悪いことだ」、という道徳観念から、ずっと、怒りを押し殺していると、離人感にはまって、ついには、何にも感情がわかなくなる・・・何年も、怒りがわかなくなる・・・・というパターンにはまってしまっていました。

私の場合、青空とか、風とか、植物にむかって、怒りを表現するようにしています。

・原始人、古代人から教えを授かる

「一体、どうやったなら、離人症が治るのだろうか?」

 と、いうことで、精神医学の本を読んだり、HPを開設したり、オフ会を開いたり、精神科の世界に関与していくうちに、自分としての意見がようやくまとまりました。

 それは、

  離人症を治すためには、原始人から教えを授かる姿勢で生きていけばよい!
 
 と、いうことでした。

 私はてっきり、精神的に病んでいる人間は、宗教や、芸術や、精神医学、はたまたは、恋愛、仕事、社交性の向上などに積極的に打ち込めば、そこに答えがあるのではないか、と、思い込んでいたのですが、どうも?これが?

 「なにか」が、違うような気がするのです。しっくりとこないのです。


 離人症になる人間の、もっともバランスの悪くなっている要素は、それは、

 「原始性」「古代性」であると、私は思います。

 つまりは、

・単純さ
・理屈の無さ
・問答無用の世界
・第六感をよりどころとする世界     ・・・などなど

 いきなり、謎のウィルスに侵され、病院にいけない世界。お医者さんもいない世界。
 いきなり、野獣におそわれる。
 いきなり、事故で誰かが即死する世界。

 そこに、何の理由も無い。説明も無い。

 こうなると、もはや、本人の野性のカンを頼りに生きるよりほかないのですが、離人症になる人の特徴は、とにかく、この「野性のカン」というものの感覚が、すごく欠落していると思うのです。

 なので、離人症の人は、たとえ、お金があって、結婚をしていて、子供がいて、仕事もちゃんとこなしていても、知識があっても、ものすごくマジメで熱心であっても、善人であっても、どうも、離人感が、何故か、さっっっっぱりと!!、治らないのです。

 私は最近、原始人、古代人の事を、非常に尊敬して生きるようになりました。

 とにかく、離人感について困っているときは、原始人を教祖として仰いで生きていけばよい! という事になってきたのです。


  原始人のカン。 咆哮、慟哭、絶食・・・。

  古代人の祈り。 怨霊、卑弥呼、シャーマンのかっこ良さ!


 これは、ちょっと言い方を変えますと、

・もっと、頭の悪い行動をする
・もっと、愚直に生きる
・もっと、社会人として、立派に生きない
・もっと、地球の一部分として生きる

 ということになると思います。

 思えば、「社会人として立派に生きる」ということに、あまりにも、洗脳されすぎていたのです。

 社会人として、立派でなくても、原始人として、立派に生きる。

 これが、離人症の答えではないかと、私は思います。

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